今年は「旧約聖書」なので、創世記から読み始め。今日(2026年10月2日)、列王記下17章まで来ました。
このままでは旧約聖書を読み終わるのは再来年までかかりそうです。
列王記下17章の歴史的背景と問題点
歴史的背景
列王記下17章には、イスラエル王国の民のほとんどがアッスリヤの各地に散乱させられ、かわりにいろいろな異国の民がイスラエル王国(サマリヤ)に移住させられてきたことが記されています。
その民は、イスラエルの神さま、主を敬わなかったので、何名かがライオンに殺されます。
アッスリヤの王は、その地に移住させた民がイスラエルの神さまを敬わないためだと聞き、サマリヤの祭司に依頼して、移住してきた民に、イスラエルの神さま、主を敬う方法を教えさせます。
その後、クロス王の計らいで、ユダの人たちが故郷に戻った時、サマリヤ(イスラエル王国)の人たちにむかって、あなたがたは異国の民との混血なのでもはや神さまの民ではない、と差別をします。
問題点
移住してきた民は、一般の人を祭司にし、イスラエルの神さまを「高き所」で敬いながら、めいめいの先祖の神にも仕えていました。
そもそも、サマリヤにいた祭司は、生まれてからずっと、北イスラエルに住んでいたので、ネバテの子、イスラエル王国の初代王のヤラベアムが始めた「高き所」での偶像崇拝しか見たことがないですよね。
また、ユダの人たちが、サマリヤの人たちを純血でないと差別することは正しいことなんでしょうか。
列王記下17章の感想
現代に当てはめて内省
ここを読みながら、自分も、移住させられてきた異国人と同様で、主を敬うことを教えてもらいながら、先祖の神や日本人が崇拝する偶像にも仕えているのではないかと、思い始めました。
イエス様がサマリヤの女にご自分を証されたこと、よきサマリヤ人のたとえを語られたことを思い出しました。
移住させられてきた異邦人と彼らを純血ではないと否定したユダヤ人について考えました。
そして、異邦人であっても、自分の選びによって神さまのもとに帰ることができるということを理解しました。
ほかの聖句からの学び
- イスラエルは純血ではない
アブラハム・イサク・ヤコブは、親類から嫁をもらいました。
しかし、ヤコブの息子たちは、ユダやシメオンのようにカナンの地域の異邦人の女性を妻としたようだし、ヨセフの妻はエジプト人である。約束の地に入った後も、周囲の偶像崇拝の国々と交流する中でその地の男性や女性との結婚もあっただろうし、(聖書外典の『ヨベル書』などのように)イスラエルの人たちは否定していたようだが、イスラエルは決して純血ではなかった。 - イスラエルは偶像崇拝の影響を強く受けた
分裂前のイスラエルも、周囲の国々の(農業の豊作を祈願する)宗教の影響を強く受けていたし、分裂直後からイスラエル王国は偶像崇拝を続けたし、ユダ王国も少数の例外を除き、偶像崇拝をやめることはできなかった - 異なる文化の中で育ってもよい実を結ぶことができる
(モルモン書ヤコブ書5章20節~24節)僕が驚いた「やせた地」に植えられた枝に良い実がなった。
枝を育てるには適さない文化・地域であっても、そこに福音を知る人たちが住み、主の養いを受けて、良い実がなる - エルサレムに移住させられた民は良い実を結んだ
(モルモン書ヤコブ書5章17節~18節)イスラエルの民が捨てられた後に、やってきた異邦人たちも、主の養いを受けて、良い実をつけた。 - ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王
ユダの人たちや周囲の国々を恐れず、主に立ち返ったので、主から約束を受けた
<結論>結局は、After all we can do でしかない。
今ここに生きることを選び、送ってくださったのだから、どんな文化のもとに生まれ、周囲の習慣にさらされようと、自分の選択を文化や習慣や周りの人の目のせいにすることなく、その軋轢の中で、主にたよりつつ、主の御心を伺いつつ、自分にできることを選択しよう。
神さまは、わたしがここで生まれ、育っていることをご存じで、わたしの状態がどんなであれ、いつも、見守り、導きを与えていてくださる。そう信じて信仰をはぐくみ、これからも前に進もう。
ローマ人への手紙9:6-8
6 しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。
8 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
ニーファイ第二書30
2それは、見よ、あなたがたに言うが、異邦人であっても悔い改める者は皆、主の聖約の民となり、ユダヤ人であっても悔い改めない者は皆、捨てられるからである。悔い改めてイスラエルの聖者である御子を信じる者でなければ、主はだれとも聖約されないからである。