イザヤ書 第41章—ギレアディ博士の解説
第41章、「島々よ、わたしの前に沈黙せよ。諸国の民よ、静まれ。」
前進して彼らの論を述べさせよ。我々は共に裁判に立とう。
創造において、諸国民と島々がある。「島々」とは、島や大陸に住む人々のことである。
そして彼らは、ここで神とその民に対して、何らかの争いまたは議論を持っている。
霊的な階段を上り、より高いレベルに達する人々がいるとき、あなたはそのような人々に対して、恐るべき反対に遭うことになる。
神のしもべたちに対する反対だ。そして明らかに誰かが扇動されている。なぜなら彼らは何かを主張しており、主は彼らを裁判にかけようとしているからだ。
彼らが自らの言い分を述べることができる法廷に連れてくるのだ。
主は主の論を述べるだろう。そしてそれは世界規模だ。
第2節は、その文脈、すなわち反対、世界的な反対、二種類の人々(すなわち、高められた存在である者たちと、反対者であるバビロン、つまり世界)との二分法の文脈で現れる。
その文脈において、主のしもべが現れる。
そしてある意味で、ここでは31節に創造があり、1節に混沌があり、そして再び2節に創造がある。「誰が東から義を起こし、ご自分の足の置くべきところに召したのか?」
「誰が彼に国々を引き渡し、彼らの支配者を倒し、彼らをその剣には塵のように、その弓には吹き払われるわらのようにしたのか?」
ここで「義」は明らかに人であり、「救い」が人であるのと同じだ。
この書全体を通して、それは主ご自身である。
どうして彼は義と呼ばれるのだろうか?答えは、彼があらゆる点で義を体現しているからだ。どのように?
契約の律法を守り、あらゆる状況下で神に忠実であることを証明することによってだ。
それが、神の定義、あるいは預言者の定義による義を構成する。
それは自己満足の義ではない。
教会に行ったり、あれをしたり、これをしたりすることではない。もちろん、それらはすべてその一部であり、あなたをそこに導くこともできる。
しかし、神の定義によれば、この人物は義を擬人化している。彼がそこにいる。これがキリストであり、律法と御言葉を擬人化している。
ヨハネは「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」と言っている。
どうして彼は御言葉であり得るのか?なぜなら彼は神のすべての言葉によって生きるからだ。
彼は神の御言葉を擬人化している。なぜなら彼は神のすべての言葉によって生きるからだ。
彼は神の御言葉を擬人化している。なぜなら彼は神のすべての言葉によって生きてきたからだ。彼はすべての試練に合格した。
彼こそが御言葉だ。彼こそが律法だ。彼はすべての律法に従ってきた。
彼はすべての試練に合格した。そしてあなたもそうなる。
あなたがそれをするとき、それを擬人化し始めるのだ。どうして主は救いとして描写され得るのだろうか?
なぜなら彼こそが救いだからだ。彼こそがそれだ。なぜ私たちはキリストのもとに来るのか?
私たちはキリストのもとに来る。なぜなら彼自身が救いだからだ。彼は私たちをそこに導く。彼は私たちに道を示す。
彼はその模範だ。彼は私たちに律法を与える。
私たちは主の御心を行い、救われる。
そして彼こそがそれだ。彼は私たちの罪の贖いを成し遂げ、私たちの違反の代償を払った。
彼こそが救いだ。「イエス」という名前は「救い」を意味する。それはイエス・キリスト、私たちの救い主にとって完璧な名前だった。
そして、神の二つの、二つの腕、すなわち義と救いがある。
そしてこれがしもべ、救いに先立つ者である。
イザヤ書において義は救いに先立つ。それは、義でなければ救われることができないことを意味する。
しかし、それはまた、しもべが主の来臨の先駆者であることを意味する。
この人物はどこから来るのか?さて、彼は主の契約の民との関係において、東から来る。
それはどこか?中東か、それとも東洋か?どこだろうか?私たちは知らない。
私たちが知っているのは、ヨハネの黙示録において、東から来る天使が144,000人の神のしもべたちに印を押す者であるということだ。
イザヤ書にも同様のシナリオがある。だから明らかに、東から来る天使と東からの義は同一人物である。
彼らは同じ目的を達成する。「誰が東から義を起こし、ご自分の足の置くべきところに召したのか?」
「ご自分の足の置くべきところ」は約束の地である。さて、どの約束の地か?イザヤはパレスチナから語っている。
だから東は間違いなくパレスチナとの関係であり、足とはそこの約束の地、パレスチナだろう。
地球もまた彼の足台であるので、それはまた天から地上に来る天使であることもあり得る。
あなたはそれを別のレベルで見て、そのように解釈することもできる。
「誰が彼に国々を引き渡し、彼らの支配者を倒したのか?」この「起こす」は創造のモチーフであり、「召す」ことである。
第40章26節で、それぞれを名をもって呼ばれるのと同じだ。
実際、神の創造の頂点は、力を新たにされる者たちである。
例として、この東から来る者、この東からの義である。
彼はそのような人物の最高の模範である。私たちは、天、地、諸国民、イスラエルの創造、イスラエルの中の崇高な人々から、今やこのしもべ、またはこの人物へと焦点を移してきた。
すべてが一人の特定の人物に焦点を合わせるようになった。彼はモデルのようなものだ。あなたの展示品のようなものだ。
彼は神の創造の「証拠A」である。そしてこれら他のすべての者たちもまた、31節において彼の展示品である。彼らは誰か?
彼らは皆、彼を助ける神の他のしもべたちである。彼らは皆、その時、共に神の業を行っている。
そして地の諸国民は彼らに反対している。しかし主は、彼を諸国民の上に力づける。
彼は彼らの支配者を倒す。それに対する先例はどこにあるか?
あなたはエレミヤが、王国を覆し、引き抜き、植え付けるために主によって力づけられたのを覚えているだろう。エレミヤ書にそう書いてある。
だから、あそこにいるエレミヤは、しもべの型である。
彼はその力を与えられており、それに対する先例がエレミヤにある。
彼らの支配者を倒し、彼らをその剣には塵のようにする。だから彼は戦士だ。
これは戦士の姿だ。その弓には吹き払われるわらのようにする。「塵」と「わら」は混沌のモチーフである。
だからこの人物、約束の地に来る東からのこの人物は、国々や支配者を混沌とさせる力、主によって力づけられる力を与えられている。
彼らを混沌とさせるのだ。塵やわらに還元するとき、あなたは非存在となる。あなたはもう存在しない。
体、人間の体は、塵に分解する。それがそうするとき、それはもはや存在しない。
だから塵は混沌のモチーフなのだ。しかし、塵からは新しい創造が生まれることができる。
それが全体の始まり方だ。
それが、イザヤがこれらのテーマを何度も何度も繰り返して交互に示すことであなたに教えていることだ。
だから彼、戦士がいる。あなたは言うだろう、まあ、神はそのような戦士を送らないだろう、と。ああ、
いや、送るのだ。なぜなら、後になって、誰もが自分より高い規範を持っているように、彼も自分より高い規範を持っているからだ。
そしてそれこそが主ご自身である。
第42章13節。「主は勇士のように出て行かれ、戦士のようにその情熱をかきたてられる。」
「主は鬨の声を上げ、敵の上に勝利の叫びをあげるだろう。」
だから、あそこで神ご自身が戦士として描写されている。あなたがその聖句とこの聖句、第41章2節を比べるとき、しもべが単にその主の模範に従っていることがわかる。
神は小羊であり得るし、戦士でもあり得る。
状況によるのだ。そして彼のしもべたちもそうだ。彼らは荒野でイスラエルの民を教えるモーセであり得るし、ファラオの軍隊の上に腕を伸ばし、彼らを海の深みに溺れさせるモーセでもあり得る。彼は彼らを追い散らし、彼の足が踏みしめたことのない道によって妨げられることなく通り過ぎる。
だから、彼にとって彼らを倒すことは非常に簡単だ。誰も彼の行く手を阻むことはできない。
これらの章、41章から46章は、イザヤ書の9章から12章と並行している。
私たちが見たように、6章から8章が36章から40章と並行しているのと同じだ。あなたは、それと並行している最初の章のブロックで、同じ種類のことが起こっていると予想するだろう。
あそこには、エッサイの株から生え出る若枝と、その接ぎ木から生じ、実を結ぶ枝がある。
そしてあそこには、彼の口の杖で地を打ち、その唇の息で悪人を殺す彼がいる。
彼は剣で彼らと戦う必要さえもない。彼は単にその言葉によって彼らを支配する力を与えられている。
翻訳された存在が持つか、またはできることと全く同じだ。
また第41章2節では、「剣」と「弓」はしもべ自身を説明する比喩である。
主は国々を彼の剣に、言い換えれば、彼のしもべの手に引き渡す。彼こそが剣なのだ。
11章の彼の口から出る剣は、私たちが議論したように、二通りの読み方ができる。
それはしもべ自身であり、彼の言葉が強力である、ということか、あるいは主が彼のしもべを道具として用いている、ということか、である。
あなたはそれを二通りに読むことができる。4節、「誰がこれを成し遂げるために働いているのか、王朝を定めながら?」
「わたし、主は、最初であり、最後である。わたしこそがそれだ。」そしてこれは、この人物、この義が新しい王朝を始めることを暗示している。
そしてその業は、終わりの日の滅亡と救済の業の一部である。
だから、この個人、この戦士と共に、いわば新しい王朝がその時に始まるのだ。
「わたし、主は、最初であり、最後である。わたしこそがそれだ」は、業を始めた主がそれをまた終わらせること、そしてイスラエルの初期の歴史とイスラエルの終わりの日、終末の歴史との間に並列、または並行関係があることを暗示している。彼は最初であり、創造を始め、また終わりの時にもそこにいて、それを結論に導くのだ。
ヘブライ語でそれを言うもう一つの方法は、「アレフ・タヴ」だ。
アレフは最初の文字であり、タヴは最後の文字である。あるいはギリシャ語では「アルファとオメガ」だ。
そしてそれは、神が初めにそこにいて、終わりにそこにいて、もちろんその間のずっといることを意味する。
しかし、特定な意味では、神の歴史の初期の成就があり、その後、神の歴史の終わりの日の成就があり、そして一方が他方と並行しているということだ。
5節、「島々はこれを見て恐れ、地の果ては震えている。」
「彼らは群れ集まり、互いに助け合い、各々がその仲間に言う、『勇気を出せ!』と。」
「勇気を出せ、頑張れ。大丈夫になるだろう。」そうだろうか?必ずしもそうではない、彼らにとってはそうではない。
なぜなら、主がその民の事柄に介入し始めるとき、彼らの敵にとっては非常に厳しいことになるからだ。ファラオとその軍隊が知ったように、エジプト人が知ったようにだ。
終わりの日に恐れに陥れられるのは誰か?エジプト人が知ったように。
終わりの日に恐れに陥れられるのは誰か?それは悪人だ。義人は恐れない。
彼らは恐れを克服する。第41章5節、人々が支えを求めて互いにしがみつき、それゆえに血肉の腕に頼っているところだ。
そして彼は8節でそれをヤコブ、すなわちイスラエルと対比しているが、それはまだ試練に合格していない範疇である。
その試練が何であるかを今すぐ見てみよう。「わがしもべイスラエルよ、わたしが選んだヤコブよ、わが友アブラハムの子孫よ、地の果てから連れ出し、その最も遠い限界から召し出したあなたに、わたしは言う、あなたはわたしのしもべである。」
「わたしはあなたを受け入れたのであって、あなたを退けたのではない。」
これらはまだ頑張っている人々だが、励ましを必要としている。
そして彼らはどこから励ましを得ているのか?互いからか?いや、神からだ。
これは、彼らが神に立ち返っており、神が「たとえあなたが退けられたように見えても、わたしはあなたを退けていない、わたしはあなたを受け入れた」と言っていることを暗示している。
たとえ第40章27節にあるように、「わたしたちの道は主から隠され、わたしたちの訴えはわたしたちの神に見過ごされた」ように見えてもだ。
彼らは自己欺瞞とつぶやきのその地点を乗り越え、今や神が彼らに語りかける立場に自分自身を置いたのだ。
だからこれらの人々は試練に合格する過程にあるが、まだそこには達していない。
彼らはまだイスラエルまたはヤコブと呼ばれている。彼らは彼らの神に再改宗しているところだ。
彼らは神との契約関係を更新している。彼らは悔い改め、地の果てから戻ってきている、あるいは今まさにしもべを通してそこから召集されているところだ。
それが彼の仕事だ。彼らを連れ戻し、地の四方からイスラエルを集めるのだ、11章にあるように。
そして彼らもまた、彼のしもべである。
彼らはいわば、集合的なしもべなのだ。民として、彼らは彼のしもべである。いわば、しもべなのだ。
民として、彼らは彼のしもべである。一人のしもべが個人のしもべであるように、彼らは集合的なしもべである。
彼らは神に選ばれている。彼らは自分たちが誰であるかを思い出す必要がある。すなわち、「わが友アブラハムの子孫」だ。
彼らは彼の愛する友になり得る。それは、「愛する友」という特別な描写用語であり、霊的な階段を上り、非常に高い地位に達する人物を表す。
主が無条件の契約を結んだ人物だ。彼の民イスラエル全体とは、彼は条件付きの契約、すなわちシナイ契約を結んだ。
そして彼らはいつでもその契約を更新できる。
しかし、彼らがアブラハム、イサク、ヤコブが合格した試練に合格するまでは、彼がアブラハム、イサク、ヤコブと結んだような無条件の契約を、彼らとは結ばないだろう。
その時、彼らも彼の愛する友になるだろう。しかし、彼らはまだそこには達していない。
その考え、アブラハムのその規範は、彼らが熱望し、模倣することができるものとして、彼らに差し出されている。
そして彼らは契約の民として、アブラハムの子孫であることを認められている。
「地の果てから連れ出したあなた」、アブラハムと全く同じだ。
アブラハムは地の果てから、カルデアのウルから連れ出され、主の足、あるいは足台、あるいは約束の地に連れて来られた。
その最も遠い限界から、地平線の向こうから召し出され、メソポタミアから彼はカナンの地へ入ってきた。
そして今、アブラハムの子孫も同じことをするように召されている。
そのように名前が言及されるとき、ここではアブラハムの場合だが、それは常にその個人が設定した何らかの先例と関連付けられている。
イスラエルの歴史において、アブラハムが設定した先例は何だったか?
それは、地の果てから来て、遠く離れた場所から召され、その親族や友人、親類を離れ、そこを相続するために見知らぬ場所に来た人物だった。
そのためにアブラハムは先例を設定し、それこそが今、アブラハムの子孫に要求されていることなのだ。
彼は彼らが従うべき型である。彼らは今、彼と同じように地の果てから召され、友人や親類を離れ、彼らの相続の地となる見知らぬ地に来るように求められている。
それは試練だ。もしあなたがロトの妻のようであれば、離れたくないだろう?
もしあなたがロトのようであれば、あなたは出てくる。特に入り込んでいる破壊が来ているときだ。そしてここで起こっていることはそれだ。
もしあなたが留まり、集め出されないなら、あなたはソドムとゴモラ型の破壊で滅ぼされるだろう。なぜなら、集め出しのこのまさに時に起こっていることだからだ。
世界は滅ぼされる。「あなたにわたしは言う、あなたはわたしのしもべである。」
「わたしはあなたを受け入れたのであって、あなたを退けたのではない。」あなたの心には疑いがある。あなたは揺らいでいる。だから、さあ。
しっかりしろ。あなたの心には疑いがある、あなたは揺らいでいる。だから、さあ、しっかりしろ。
10節、「恐れるな、わたしはあなたと共にいるからだ。おののくな、わたしはあなたの神であるからだ。」
「あなたの神」はあなたの契約の神であり、契約の関係を表している。
彼と共にいることは、エマヌエルという名前だ。
神は私たちと共にいる。神があなたと共にいるとき、あなたは彼の目的を達成できる。そこには保護がある。
恐れる必要はない。試練だ、そうだ。先に何があるかわからないから試練なのだ。
しかし、あなたが神を信頼するなら、彼はあなたを守るだろう。「わたしはあなたを強くする。」
「わたしはまたあなたを助け、わたしの義の右の手であなたを支える。」
だから、しもべが強められるように、あるいは主を待ち望む者が強められ、力を新たにされるように、神を信頼する限り、誰でもそうあり得る。
ヤコブ、すなわちイスラエルもそうあり得る。彼らは強められるだろう。どのように?
まず第一に、主のしもべの仲介によってだ。彼は神の右の手、言ってみれば彼の右腕だ。
ヘブライ語から「わたしの義の右手」を翻訳するもう一つの方法は、「義、わたしの右手」である。
だから、「わたしは義、わたしの右手であなたを支える」となる。
実際、そちらの方がより正確な翻訳だが、英語ではあまり意味が通らない。
だからほとんどの翻訳は、代わりに「わたしの義の右手」と言う。
だから、彼らを支えるのはしもべなのだ。
彼は群れを牧する羊飼いだ。彼らを優しく導く。
彼は、主ご自身である善き羊飼いの後を追う。誰もが自分より上に模範を持っている。
神が彼を強め、助けるように、彼も神の民を強め、助ける。
11節、「見よ、あなたに激怒する者は皆、恥と不名誉を蒙るだろう。」
「あなたの敵対者は無に帰して滅びるだろう。」試練が進行している。恐るべき試練だ。
人々は激怒している。彼らは神の民と彼のしもべに対して憤慨している。では、私たちはどうすべきか?その最中でためらうか、あるいは神にしっかりと信頼するか?それは試練だ。特にあなたがイスラエルの神に新しく改宗しているときに、過去のすべての先例が神が彼らのために成し遂げることを示しているような状況に直面するのは。
「あなたの敵対者は無に帰して滅びるだろう。」それは再び混沌のモチーフだ。強めることと支えることは創造である。
それは再生だ。そしてイザヤ書において、常に恥と不名誉を蒙るのは悪人、主の民と戦う者、あるいは偶像礼拝者である。
私たちが次の数章で見るように、多くの場合、それは偶像礼拝者と結びついている。
だから彼らは敵対者を持っている。あなたが神の民になるとき、敵対者を持たずにはいられない。
それは神の民であることの本質に不可欠な一部なのだ。
あなたが彼と契約するとき、あなたは目を開いてそれを行い、反対を受けるつもりであることを知っている。
そしてあなたが霊的な階段を高く上るほど、反対はより激しくなる。
イザヤ書の後半で主のしもべと呼ばれる者たちは、カルト信者と偽の兄弟と殺人者と偶像礼拝者と背教者に対処している。
彼らは激しい反対を受けている。そしてその反対こそが彼らをより高く持ち上げるのだ。なぜならその反対の真っ只中で、彼らは救いと助けと力を神に叫び求めるからだ。
そしてそれが彼が彼らを力づける方法だ。それが彼が彼らを力づける時なのだ。
そしてその力づけは、それ以降彼らと共に留まる。それは私たちのまさに進歩の一部だ。
上昇の一部は、あなたを引きずり下ろそうとする者たちがいて、神が彼らに対してあなたを強めることなのだ。
「あなたと争う者を探しても、あなたは彼らを見つけることはないだろう。」
「あなたと戦う者は誰でも、無に還元されるだろう。」再び混沌のモチーフ、あるいは混沌のモチーフの継続だ。
これは深刻なことだ。それは全面戦争だ。それは争い、戦争、あなたに激怒する人々、あなたと戦うことだ。
それこそが、あなたが救い出された状態、あるいは救われた状態で出てくるために、あなたが潜り抜けなければならないことなのだ。
13節、「まことに、わたし、あなたの神、主は、あなた、あなたの契約の神という所有格を表明し、あなたの右の手を取り、あなたに言う、『恐れるな、わたしがあなたを助ける』と。」明らかにこれらの人々は神との契約関係にある。彼らはもはや40章27節にいた者たちではない。彼らはつぶやき、不平を言い、自分自身を欺く地点を乗り越えたのだ。
彼らはつぶやき、不平を言い、自分自身を欺く地点を乗り越えたのだ。
今や彼らは神の右の手によって持たれている、あるいは強められている、あるいは支えられている。
彼のしもべが彼らを力づけている。彼が神の右の手なのだ。彼の手段を通して神は彼らを助ける。
また、神の左の手、すなわちアッシリアの王もいる。懲罰の手
対 救済の手だ。
神の二つの手、主の二つの手。
アッシリアの王は打ち、罰する左の手であり、主のしもべは救済の右の手、彼らを救い出す手である。
「恐れるな、わたしがあなたを助ける。」恐れが正当化されるであろう時に、恐れるな、だ。
「恐れるな、ヤコブのうじ虫よ。イスラエルの人々よ、おののくな。」
なぜうじ虫か?
なぜなら、そこから始まるからだ。あなたは卑しい「うじ虫」から始まり、最終的には「蝶」として終わる。
あなたは踏みにじられることから始まり、最終的には悪人を踏みつける者として終わる。
それが神のやり方だ。彼はエサウに平伏するまで、ヤコブを高めなかった。
キリストご自身も来て、カイアファスに服従した。
高挙の前には常に屈辱があり、救いの前には苦難があり、高められた状態の前には謙遜な状態がある。
そしてこの範疇は誰か?ヤコブ、すなわちイスラエルであり、試練に合格する真っ只中にいる者、あるいはその過程にある者だ。
「わたしはあなたの助けである」と主は言う。「あなたの贖い主はイスラエルの聖者である。」
だから「贖い」は、物理的な敵に直面した時の助けとして定義される。
なぜなら主の贖いは単に霊的なものだけではないからだ。
もしあなたがイザヤ書の最初から最後まで「贖う」または「贖い」という言葉を追うなら、あなたはその意味の定義を得ることができる。そしてそれは、ここにあるように物理的な救済を含む。それは贖いと並行している。「わたしはあなたの助けである」、物理的な敵に直面した時の「わたしはあなたの贖い主である」、彼らは贖われるのだ、聖性の模範としてのイスラエルの聖者によって。
彼は誰を救い出すのか?彼に似た者たちだ。聖なる者たちだ。聖別された者たちだ。
そして、彼らが彼のように聖く、聖別されるとき、あるいはある程度彼に似るとき、それから彼らに何が起こるのか?
彼は彼らを力づける。「わたしはあなたを、新しく、鋭い歯のある、とげで満ちた脱穀用のそりにするだろう。」
まるで現代の何らかの農具のようにだ。
「あなたは山々を脱穀して塵にし、丘を籾殻にするだろう。」
塵と籾殻は混沌のモチーフだ。そしてここで彼らは敵に対する力を持つ。
彼らは鋭い歯のある脱穀用のそりであり、敵を脱穀し、彼らを混沌とさせるのだ。
しかし、それは東からの義が2節で行ったことだ。彼は国々を脱穀して塵とわら、すなわち籾殻にしたのだ、同じことだ。
彼がするように、彼らもするのだ。そしてイザヤ書における「山々」は諸国民の比喩であり、「丘」も同様に、より小さな国々や人々を指す。
だから彼らもまた国々を脱穀して塵にしている。彼らは両方とも新しい征服に関わっている。
それはイスラエル人が来てカナンの地を征服したときに行ったことだ。
彼らは約束の地の征服において、国々を脱穀して塵にし、丘を籾殻にしたのだ。
だから、これら二者、すなわち個人の人物、東からの義、そして個人のしもべと集合的なしもべ、ヤコブ、すなわちイスラエルが、全く同じことをしていることを暗示している。
あなたは彼らが互いに独立してそうしていると思うか?いや、もちろん違う。
彼らはモーセがイスラエル人としたように行っている。
彼は彼らを戦いに導いた。
あるいはヨシュアも同じことをした。彼らはこれを一緒に行っている。なぜなら、彼がその右手によって彼らを強め、助け、彼らを力づけているとあるからだ。
だから明らかに、彼らはそれを一緒に行っている。そして私たちは混沌、混沌のモチーフに戻る。
別の旧約聖書の預言者がいて、基本的にこの同じことを引用し、一人が彼らの頭、あるいは彼らの前で上り、彼らは国々を脱穀して塵にするだろうと言っている。
彼は「脱穀する」という言葉を使い、「国々」と「塵」という言葉を使っている。
起こっていることは、彼が彼らを改宗させることによって彼らに関与するとき、主の古代の契約の民が彼らの神との契約を更新することなのだ。
神は彼らを力づける。
そして彼らは基本的に、モーセとイスラエル人がカナンの地を征服したときと同じシナリオを経験する。
「あなたが彼らをふるいにかけるとき、風が彼らを運び去り、暴風が彼らを吹き散らすだろう。」
「その時、あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖者を誇るだろう。」
なぜならその時、あなたは敵に対する勝利を得るからだ。すなわち、あなたを抑圧してきた者たち、あなたに激怒している者たち、あなたに戦いを仕掛けている者たちに対してだ。
そしてあなたは、もちろん、神に功績を与えるだろう。
「風」と「暴風」は、アッシリアの王がその役割を果たす、裁きの日を示すためにイザヤ書全体を通して使われる嵐のイメージだ。
民のそれらの敵は、アッシリアの王がその役割を果たすその日に滅びるだろう。
民のそれらの敵は、アッシリアの王がその破壊を行うその日に滅びるだろう。
実際、「風」と「暴風」はおそらくアッシリアの王自身の比喩なのだろう。
彼が風であり、彼が暴風だ。17節、「貧しい者と乏しい者が水を求め、水がなく、その舌が渇きでひからびるとき、わたし、主が彼らの求めに答えるだろう。」
「わたし、イスラエルの神は、彼らを捨てることはない。」
これは、イスラエルがエジプトから約束の地への途上で荒野をさまよった状況に似ている。
彼らは進みながら征服した。荒野と砂漠を通っていたため、飲む水がない時があった。
そしてこれから先、イザヤがこの問題を何度も何度も提起していることがわかるだろう。彼らが荒野や砂漠をさまようとき、一部の人々が「ああ、私たちはそこには行けない」と言うだろうと。
「そこには水がない。」そして彼は、イスラエル人に備えたように、そこには水があるだろう、主が水を提供するだろうと、私たちを絶えず安心させ続けている。
なぜなら、それらはイスラエル人が言ったまさにその事柄だからだ。「ここには水がない。」
「なぜあなたは私たちをこの荒野に連れて来たのか?滅びさせるためか?」
そして、イザヤは彼らを何度も何度も安心させ続け、そのようなことを言っている人々がいて、それからその脱出には水があるだろうと言うことでその状況を先取りしていることを暗示している。
そして行くのは誰か?貧しい者と乏しい者だ。彼らが脱出に行く者たちだ。
イザヤ書における「貧しい者と乏しい者」は、以前に見たように、並行法によって彼の契約の民として定義されている。
では、具体的に誰が脱出に行くのか?彼らだ、神の民の貧しい者と乏しい者だ。
言い換えれば、富める者は行かない、あるいは行かないかもしれない。なぜなら、彼らは明らかに、イザヤがその民に要求する義の定義の一つである、貧しい者と乏しい者の抑圧を和らげるためにその富を使わなかったからだ。
また、水を持つことと食物を持つことは、契約の祝福である。
もし彼らが水を持たなかったら、もし彼らが十分に食べるものがなかったら、彼らは呪いの下にあるだろう。
彼らは常に十分持っている。主が備える。「舌」は、この場合、主のしもべを説明するもう一つの比喩であり、彼の試練の一つが、本当の渇きを経験する期間を経ることであることを示しているかもしれない。
それは、より難解な解釈のレベルだ。「わたし、主が彼らの求めに答えるだろう。」
「わたし、イスラエルの神は、彼らを捨てることはない。」彼らの一部は彼を捨てており、それが問題なのだ。
彼らがそうするとき、彼は彼らを捨てる。しかし、彼に立ち返る者たちは違う。彼は彼らを捨てない。
だからこれは良いことだ。
18節、「わたしは裸の丘陵地に川を開き、平野の真ん中に泉を湧き出させるだろう。」
「わたしは砂漠を湖にし、乾いた土地を水の泉にするだろう。」
これは、以前に読んだように、砂漠が花を咲かせ、楽園のような状況に変わるときに起こる、偉大な呪いの逆転である。
そしてそれは砂漠で始まり、肥沃な場所ではない。
地の肥沃な場所は荒野にされ、荒野の場所は肥沃な場所にされる。
その二者には全く逆のことが起こる。そしてそれはいつ起こるのか?
主の民が荒野をさまよいながら来るとき、それが起こるのだ。彼らが通り抜けるにつれて、荒野が花を咲かせる。
なぜそれが起こるのか?なぜなら主が彼らに同行するからだ。主は彼らと共にいる。
主は雲の柱の中に彼らと共にいる。「わたしはあなたと共にいる。」「恐れるな。」「わたしはあなたと共にいる。」
「おののくな、わたしはあなたの神であるからだ。」それは神の民の中にある神の臨在、あるいは、彼らの集合、脱出、そして約束の地へのさまよいを助ける神のそれらの特別なしもべたちの中に現れる、神の力の臨在であり、しもべたちを通して現れる力もまた、これらのことを引き起こすのだ。
しかし、それを行うのは神だ。神だけが砂漠に花を咲かせることができる。
誰もそれはできない。「わたしは荒野に、杉とアカシア、ギンバイカとオリーブを置くだろう。」
「わたしは段丘に、糸杉、ニレ、ツゲを置く。それは、すべての人々が見て、知り、考え、そして主がこれを手で、イスラエルの聖者がそれを創造したことを悟るためである。」
だから新しい創造があるのだ。15節には籾殻と塵があり、16節には風と暴風があり、それは混沌だ。
今、再び新しい創造がある。新しい創造とは何か?
新しい創造とは、砂漠が花を咲かせ、再び肥沃になることだ。「イスラエルの聖者がそれを創造した。」
しかし、「主の手がこれを手でした」と言うとき、それは何を意味するのか?主の手は何をしたのか?
主は木々を創造し、荒野に花を咲かせたのか?いや。
主は敵の征服を助けたのだ。
彼は10節と13節で神の民を力づけた者だ。「わたしはわたしの義の右の手であなたを支える。」
「わたしはあなたの右の手を取る。」彼が行ったのは、いわば、神の敵と民の征服、新しい征服だった。
イスラエル人がカナンの諸国民を征服したのと全く同じだ。
ここには、主と主の「手」との間の分業がある。
その分業は、神が荒野を肥沃な土地に変えることと、主のしもべが彼らを敵から救い出すこととから成る。
それはまた、主と主の右の手である主のしもべとを連携させている。
そしてあなたは最後までその連携を見るだろう。主がそのしもべと協調して行動すること、あるいは逆に、しもべがその主と協調して行動することをだ。
そしてあなたはそれを、特に混沌と創造が交互に現れるモチーフの中に見る。
時には神が創造を行い、時にはしもべが創造的な何かを行い、そして時には、この場合のように彼らが一緒に働く。
創造のモチーフはその二者の間で分けられているのだ。
21節、「あなたの訴えを提出せよ、と主は言う。あなたの証拠を差し出せ、とヤコブの王は言う。」
21節、「あなたの訴えを提出せよ、と主は言う。あなたの証拠を差し出せ、とヤコブの王は言う。」
「彼らに前進して、以前の出来事についての彼らの預言を私たちに語らせよ。それらは何だったか?」
「私たちに告げよ。私たちがそれらを調べて、それらが成就したかどうかを知るために。」
だから、神の民に反対している、神の民に異議を唱えている、彼らに激怒している等々、他の者たちを彼らに敵対するように扇動しているこれらの人々に、今、主は言う。「まあ、ね、もしあなたが訴えがあるなら、来て提出しなさい。」
そしてあなたを正当化する事柄の一つは、もしあなたが未来を預言し、それを成就させることができるなら、私たちはあなたが神からのものであることを知るだろうということだ。
そしてもしあなたがそれができなければ、あなたは神からの者ではない。なぜなら、それが神の人をそうさせるものだからだ。
もし彼が神の預言者であれば、彼は未来を預言し、それを成就させるだろう。
そしてもし彼が何かを預言し、それが成就しなければ、あなたは神からの者ではない。
「彼らに前進して、以前の出来事についての彼らの預言を私たちに語らせよ。」
「それらは何だったか?」
「私たちに告げよ。私たちがそれらを調べて、それらが成就したかどうかを知るために。」
あるいは、「私たちのために未来を預言せよ。」あなたは過去にそうした。
あなたはあなたの統計、あなたの曲線、あなたの図表に基づいて予測をした。
あなたは2000年までに、あれとこれが起こるだろうと予測した。
そしてそれはあなたが言った通りに起こったか?いや。
だからあなたは詐欺師だ。
あなたは神がこれとこれとこれをしようとしていることを知らなかっただろう?
それがここで進行している議論の一種だ。あなたは過去に物事を予測し、それらを起こすことができたか?
いや。あなたは今、未来を預言できるか?もう一度チャンスを与えよう。
「今後起こる出来事を私たちに告げよ。そうすれば、あなたが神々であることを知るかもしれない。」
彼がこれらの人々とどう楽しんでいるか見てみろ。彼はとても皮肉的だ。
「何か善いこと、あるいは悪いことを行え。それによって私たちは目を見張らされ、皆畏敬の念を抱くであろう。」
明らかに、あなたたちには説明がなく、あなたたちの行いは何にもならない。あなたたちを受け入れる者は誰でも、それ自体が忌み嫌われるものだ。
あなたたちは忌み嫌われるものであり、彼らがあなたたちと少しでも関わりを持つなら、彼らも忌み嫌われるものだ。
再び混沌のモチーフがある。「何もない。」「忌み嫌われるもの。」25節は再び創造だ。
「わたしは北から一人の者を起こし、彼はわたしの名を呼び求める。彼は日の出の方向から来るだろう。」
「彼は高官たちの上に、泥の上のようにやって来て、陶工のように彼らを粘土として踏みにじるだろう。」
だから北から一人の者を「起こす」ことは、創造のモチーフである。
「日の出の方向から来る。」それは東からだ。
そしてそれは、2節で見たのと同じ人物だ。混沌と創造が交互に現れるテーマのこの偉大な交差対句法の中で、実際にはすべて同じ人物だが、ただ異なる性格付けがされている一連の個人がいる。
ここでの彼の性格付けの一つは、彼が主の名を呼び求めるということだ。
そして主は彼をその民を助けるために送る。
だから彼は、実際にはパレスチナとの関係において、北東から来る。私はそれがパレスチナだと思う。
「彼は高官たちの上に、泥の上のようにやって来て、陶工のように彼らを粘土として踏みにじるだろう。」
さて、それは2節の人物も行うことだ。
彼は国々や支配者の上にやって来て、彼らを塵と籾殻、あるいはわらに踏みにじる。
だからこの人物、同一人物が、泥のように、粘土のように彼らを踏みつける。それらは混沌のモチーフだ。
彼は彼らに対する力を持っている。さて、もちろん、それが起こるのは、これらの国々や支配者がまず神の民に対して抑圧的であった後にのみ、だ。
彼らはかつて神の民を踏みつけていた。そして今、形勢は逆転した。
そして今、彼らが他の者にしたことが彼らに行われる。
そして私たちはイザヤ書の後半でそれを見る。そこでは神の民がその背中を地面のようにし、人々がただ彼らを荒々しく踏みにじり、彼らを踏みつける。そしてしもべがやって来て状況を逆転させ、彼らの敵に形勢を逆転させるまでだ。
そして25節では、彼が未来を予測できる者であることを暗示している。22節にあるように、「私たちのために未来を預言せよ」と。彼らはできないが、彼はできる。だから、彼らと彼との間にここで対比があるのだ。彼らは未来を予測することができない。彼らの統計に基づいた予測は、
決して成就しなかった。なぜなら、すべてが突然変わり、彼らが全く予想しなかった悪人と義人との間の状況の完全な逆転があるからだ。
そして彼らは偽りなのだ。彼らは不当だ。しかし、しもべは正当であり、彼は真の預言者である。
26節もまた27節で言っているように、「誰がこれを前もって告げたので、私たちは知ることができただろうか?」
誰がこの形勢の逆転を前もって告げたのか?
「彼が正しかったと言うことができるように、前もってそれを宣言したのか?」
さて、ヘブライ語では、「彼が正しかった」というところは文字通り「義なる者」と言っている。
それは2節と25節の主題に対する言葉遊びだ。だから、「誰がそれを前もって宣言したのか?」
誰かしたか?そうだ、したのだ。誰だったか?彼がした。義が行った。つまり、義なる者だ。彼がそれを予測したのだ。
だから、彼は真の預言者なのだ。「実に、誰もそれを予言できなかった。」
彼らのうち誰もできなかった。
「誰もそれを知らせなかった。」「あなたたちからは、預言的な発言も、そのような発言も誰も聞いていない。」
偶像礼拝者からも、反対者からも、偽の権威者からも、高官たちなど、現代の高官たちからもではない。
「しかしシオンには、彼こそがその先駆者となるだろう。」「わたしは彼を、エルサレムに良き知らせの先触れとして任命するだろう。」
だから、そこにシオンとエルサレムという名前がある。それは神の民の悔い改めた範疇、その特別な範疇だ。
シオンとエルサレムにとって、彼はその先駆者、良い知らせの先駆者、良い知らせの先触れだ。すなわち、主の来臨と、主のその民との契約の更新と、彼らの贖いの日と、主の来臨と、千年王国の到来など、そしてまた破壊の先触れでもある。
彼はそれらすべてのことを抱えており、それらすべてのことを預言し、それはすべて彼が言う通りに成就する。
だから彼は、彼らとは対照的に、真の預言者なのだ。「わたしが見たとき、助言を与えることができる者は誰もいなかった、すなわち、再び悪人たちの中に誰もいなかった。あるいは、わたしが彼らに尋ねたとき、一言でも答えることができる者は誰もいなかった。」
彼らは教義にも精通していなかった。彼らは知りさえしなかった。彼らは接触を失った。
そしてそれは政治的および宗教的権威者にも当てはまる。なぜならイザヤ書では、彼らは常に互いに並行しているからだ。
それはあたかも、民の指導者層が、それが政治的であろうと宗教的であろうと、民自身の反映であるかのようだ。
だからもしあなたが悪人を持つなら、彼らは政治的、宗教的の両方で、邪悪な指導者を持つ。
もしあなたが義人を持つなら、彼らは政治的、宗教的の両方で、邪悪な指導者を持つ。(注:文脈の前後から「義人には義なる指導者」の意図と思われるが、原文を忠実に翻訳)
もしあなたが義人を持つなら、彼らは政治的、宗教的の両方で、義なる指導者を持つ。
「わたしが見たとき、助言を与えることができる者は誰もいなかった。あるいは、わたしが彼らに尋ねたとき、一言でも答えることができる者は誰もいなかった。」
「まことに、彼らは皆不義であり、彼らの行いは価値がなく、彼らの流出物は単なる風と空虚である。」
再び混沌に戻る。だから基本的に、ここには二つの側面がある。
あなたは義人と悪人の二極化を持っている。義人の中には悔い改める者たちがいる。
神の民の誰でも、ユダヤ人、異邦人、関係ない。
シオンは、神の義の基準に従って生きる、悔い改める者たちの範疇である。
そして、彼らに反対する者たちがいる。彼らは常に反対している。
あなたは、彼らがもたらしている反対によって、常に悪の側面を見分けることができる。
彼らは激怒し、怒り、あざけり、あるいは侮辱しているが、彼ら自身は答えることができない。