とある勉強会でイザヤ書を勉強しています。
昨日もその集まりがあり、その中の話を思い出していて気が付いたことがあります。
イザヤ11章6節「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、」の聖句について、
これまでは、襲う動物と襲われる動物が一緒にいる=争うことがない=平和な状態を示しているとだけ考えていました。
反芻しない動物=清くない動物=異邦人 と 反芻する動物(家畜)=清い動物=イスラエル と解釈できる、と話されていました。
それを思い出していて、使徒行伝10章にある物語(聖句)が頭に浮かびました。
11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
–聖句引用はここまで–
モーセの律法を学んで守っているイスラエル人は、冒頭の聖句を見たら、襲う・襲われるという区別ではなく、聖くない・聖いという区別が先に頭に浮かぶのだろうと。
そして、ペテロが啓示を受けた後に理解したように、聖くない=異邦人、聖い=イスラエル・ユダ とつながったのだろうと。
なるほど、ニーファイがユダヤ人の生活習慣を知っていないとイザヤの預言は理解できないと説明したのはこういうことだったのだろうと。
リーハイの荒野の旅を聖典で読んでいるだけでは、砂漠には水のない川があり、雨が降ると濁流となって現れたり、山よりも谷の方が確固としている、ということに気が付かないのと同じだなあと。
おおきな気づきになりました。
(参考)申命記14章
3 忌むべき物は、どんなものでも食べてはならない。
4 あなたがたの食べることができる獣は次のとおりである。すなわち牛、羊、やぎ、
5 雄じか、かもしか、こじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊など、
6 獣のうち、すべて、ひずめの分れたもの、ひずめが二つに切れたもので、反芻するものは食べることができる。
2024年1月22日