聖典・預言書が伝えようとしていることを自分なりに探ってみる(その2)

I try to find out for myself what the holy scriptures and prophets are telling me.

「聖典・預言書が伝えようとしていることを自分なりに探ってみる」
をかきかけて、まだ書きかけなのですが、ながくなったので、その続編をこちらに書きます

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I try to find out for myself what the holy scriptures and prophets are telling me. 以前、聖典の読み方として、自分に当てはめてみるということを紹介しました。[…]


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作者は末日聖徒イエス・キリスト教会の会員である故、ほかの教会の教義や考え方とは異なる点もあるかもしれません。また、正しく理解していないことがあるかもしれません。ご容赦いただきますようにお願いします。

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預言者は自分の時代の出来事をつかって末の日の出来事をを預言する

前回も書きましたが、聖典にはおおきな筋書きとして、

  • 悔い改めて終わりまで耐え忍ぶなら救いを得る
  • 最後の時に、イスラエルは再び集められて、神殿の祝福を受け、幸福な状態になる

ということが記載されています。

イザヤ書もざっと読むと上のことが書いてあるだけに見える。

ではなぜ、救い主も預言者もイザヤの預言を調べるように命じられたのか。

多くの預言者と同じく、イザヤやヨハネは末の日に起きることを見て、書き記すように召されました。
そして、自分たちがこの世からいなくなった後、背教があって、聖文が抜き取られたり、書き換えられたりすることも見ていました。

なので、すぐには意味が解らないように隠すことと、伝えたい人には伝わるような工夫をしていました

末の日に生きるキリストの弟子にはそれを読み解くことが求められている。

なぜなら、末の日に起きることに耐えていけるように備えさせる必要があるから

とわたしは考えています。

前回も仮説として書きましたが、イザヤの時代に起きたこと、国の名前を比喩として使って、末の日に起きることを示している。
そうすると、イザヤの時代の人には身近で違和感がないですし、過去の歴史を書いていると受け止められるからです。
なので、わたしたちは、その比喩が現代における何を示すのかを考えながらイザヤ書や黙示録を読む必要がある。
示しているのは、単なる国名ではないかもしれません、組織かもしれません。

呼び名の違いの意味

イザヤはイスラエルの民について、複数の呼び方をしています。
ヤコブ(の子たち)、イスラエル(の民)、シオン(の民)、エルサレム(の民)。

アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)は個人として神様と契約を交わしました。

モーセの時代になり、イスラエルは、モーセの仲介により、イスラエルの民として神様との契約に入りました。
しかし、契約の本質を理解した人は少なく、多くの人は戒めを形式的には守りながら、心は神さまから離れていくようになりました。

イザヤは、このようなひとたち、契約を交わしながら、神さまに真心を向けていない人たちをイスラエル(ヤコブ)と呼んでいるようです。
一方で、心から改心し、義に適った生活をしようとする人たちをシオンやエルサレム(の民)と呼んで区別しているようです。

シオンとエルサレムを同列に高い位に置いていることについて

アブラハムは十分の一をサレムの王、メルキゼデク(ヘブライ語で「義の王」の意味)に捧げます。
メルキゼデクはいと高き神の祭司でした。メルキゼデクとは何者でしょう。

以下の聖文にある通り、

メルキゼデクは救い主イエスキリスト、神の御子に近い人であったとわかります。

(操作方法)右側の「+」付近をクリックすると聖句が広がって出てきます。
そのあと、右側の「-」付近をクリックすると閉じます。

メルキゼデク
(創世記14章18節~20節)
18節)その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。
19節)彼はアブラムを祝福して言った、「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。
20節)願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。(JS創世記14章25節~40節)
25節)メルキゼデクは声を上げて,アブラムを祝福した。
26節)さて,メルキゼデクは信仰の人であり,義を行った。子供のころ,彼は神を畏れ,ライオンの口を封じ,猛火を鎮めた。
27節)こうして彼は神から認められ,神がエノクと交わされた聖約の位に従う大祭司に聖任された。
28節)それは,神の御子の位に従うものであり,その位は人によらず,人の意志によらずに与えられたもので,父も母もなく,日の初めも年の終わりもない。それは神から来たものであった。
29節)それは,神御自身の声の召しにより,神御自身の御心に従って,人々に,すなわち神の名を信じるすべての人に与えられた。
30節)神御自身がエノクと彼の子孫に固く誓っておられたからである。この位と召しに従って聖任された人は皆,信仰により,山々を崩し,海を分け,水を干上がらせ,その流れを変える力を持つであろう。
31節)また,もろもろの国の軍勢をものともせず,地を分け,あらゆる縄目を解き,神の前に立ち,神の御心と命令のとおりにすべてのことを行い,支配と権威を服従させる力を持つであろう。これは,創世の前からおられた神の御子の御心によるのである。
32節)この信仰を持ち,この神の位に上った人々は,身を変えられて天に取り上げられた。
33節)さて,メルキゼデクはこの位の祭司であった。そのため,サレムで平和を得て,平和の君と呼ばれた。
34節)そして,この民は義を行い,天を得,エノクの町を求めた。それは,末日まで,すなわち世の終わりまで取っておくために,神がかつて地から分けて取り上げられた町である。
35節)神は,天と地が一つとなり,神の子らが火によるかのように試されると言い,固く誓われた。
36節)このメルキゼデクはこのように義を打ち立てたので,彼の民によって天の王,言い換えれば,平和の王と呼ばれた。
37節)そして,彼は大祭司であり,神の倉を守る人であったので,声を上げて,アブラムを祝福した。
38節)神は彼を,貧しい人々のために什分の一を受け取るように定めておられた。
39節)そこでアブラムは,自分が持っていたすべてのもの,すなわち神が必要を超えて授けてくださったすべての所有の富の什分の一を彼に納めた。
40節)すると,神はアブラムを祝福し,御自身が交わされた聖約と,メルキゼデクが彼に授けた祝福とに従って,富と誉れと土地とを永遠の所有として彼に授けられた。(ヘブル人への手紙5章6節)
6節)また、ほかの箇所でこう言われている、「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」。(ヘブル人への手紙7章1節~2節)
1節)このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
2節)それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。

(アルマ書13章14節~19節)
14節)まことに,メルキゼデクの時代の民のようにへりくだりなさい。メルキゼデクも,わたしがこれまで語ってきたこの同じ位に従う大祭司であり,とこしえに大神権を受けた人である。
15節)アブラハムが什分の一を納めた相手はこのメルキゼデクであった。まことに,わたしたちの先祖アブラハムは,彼の所有したすべてのものの十分の一をこの人に納めたのである。
16節)さて,これらの儀式は,それによって人々が神の御子を待ち望めるように定められた。それは神の御子の位の予型,すなわち神の御子の位そのものであった。これが行われたのは,人々が自分の罪の赦しを受けるために神の御子を待ち望んで,主の安息に入れるようにするためであった。
17節)ところで,このメルキゼデクは,サレムの地を治める王であった。彼の民はかつて罪悪と忌まわしい行いを募らせていた。彼らは皆迷って,あらゆる悪事にふけっていたのである。
18節)しかし,メルキゼデクは力強い信仰を働かせ,神の聖なる位に従う大神権の職を受けたので,民に悔い改めを説いた。すると見よ,彼らは悔い改めた。そして,メルキゼデクは生涯その地に平和を確立した。そのために,彼はサレムの王であったので,平和の君と呼ばれた。彼はその父の下で国を治めた。
19節)さて,メルキゼデクよりも前に多くの人がおり,メルキゼデクより後にも多くの人がいたが,彼よりも偉大な人は一人もいなかった。そのため,人々が彼について述べることは特別であった。

(教義と聖約84章14節)
14節)このアブラハムはメルキゼデクから神権を受け,メルキゼデクは先祖の血統を通してそれを受け,まことにノアまで至り,

(教義と聖約107章2節~4節)
2節)なぜ前者がメルキゼデク神権と呼ばれるかといえば,メルキゼデクはそれほど偉大な大祭司であったからである。
3節)彼の時代の前には,これは神の御子の位に従う聖なる神権と呼ばれていた。
4節)しかし,至高者の名を敬い尊ぶことから,この名をあまり頻繁に繰り返すのを避けるために,昔の教会員はこの神権を,メルキゼデクにちなんで,メルキゼデク神権と呼んだのである。

(操作方法)右側の「+」付近をクリックすると聖句が広がって出てきます。
そのあと、右側の「-」付近をクリックすると閉じます。

しかし、この方が何者なのかは、聖典には示されていません。したがって推測になります。

アブラハムの前にいた人、もちろん、ノアよりも後の人。

セムかもしれません。

そして、

エル・サレム は

  • イスラエルの神殿が建てられた場所
  • 救い主イエスキリストが命を犠牲として捧げた場所
  • 現在も、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地

特別な場所であるとわかります。

サレム
(詩篇76:1-2)
1節)神はユダに知られ、そのみ名はイスラエルにおいて偉大である。
2節)その幕屋はサレムにあり、そのすまいはシオンにある。
イザヤが、単に、ヤコブの子孫やイスラエルと呼ぶとき、神様と契約をしたが、義から遠ざかっている人たち
エルサレムやシオンと呼ぶとき、義の点で、上位にいて、イスラエルを導く人(神のしもべ)たちを指している。

イスラエル王国を攻めた国々が滅びた理由

時代が下り、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂した後、北王国はアッスリアに滅ぼされ、北王国の民は行方知れずになります。
一方で、南王国はアッスリアからは守られた後、バビロンによって滅ぼされますが、多くの民はバビロニアに連れていかれます。
南王国がしばらく残るのは、正しい王がいたことも理由としてありますが、大きな理由は、神様とダビデとの契約により、ダビデの子孫は王として、その子孫から救い主が生まれる、という約束を受けていたことです

結果として

ダビデの血を引くヨセフとマリヤの子として、救い主はこの世に生を受けます。
アッスリアとバビロンは、自分たちが強くて力があるから(当時の)世界を征服したと考えていました。
しかし、神さまは、イスラエルが救い主との契約に立ち返るように望んでおられ、彼らを使ってイスラエルを懲らしめられただけでした。
※レーマン人がニーファイ人にとっての鞭として使われたのと同様です。

アッスリアとバビロンは道具に過ぎなかったのですが、王や民は心を高ぶらせて、圧政を行ったために、滅ぼされてしまいました。

神さまは契約の民を守られる

エステル記には、ユダヤ人モルデカイを嫌うハマンが、モルデカイをペルシャ中のユダヤ人もろともに滅ぼそうと企てたことが記されています。
その勅令が実行される直前に、神さまはユダヤ人を守り、ハマンとその家族、ユダヤ人を滅ぼそうとしていた人たちが滅ぼされることになりました。

ニーファイの民の中で少数の信仰を持つ人たちが救い主の誕生を待ちわびていた時、反抗する人たちは日をきめてその日までに誕生の印がなかったら信じる人たちをすべて殺すことにしていました。ちょうどその前日に印が現れました。

末の日にも同じことが起きるに違いありません。なぜなら、歴史は繰り返すからです。

すでに起きたことも、末の日に再びおきると考えています。

義人を守る約束

神さまとの契約には条件が伴いますが、
神さまは現代も義人を守ると約束されています。

義人は守られる
(マラキ書4章1節~2節)
1節)万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。
2節)しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

(第2ニーファイ30章10節)
10節)主なる神が,民の中に甚だしい分離を引き起こされる時が速やかに来る。そのとき,主なる神は悪人を滅ぼし,御自分の民を救われる。まことに,たとえ火で悪人を滅ぼさなければならなくても,そのようにされる。

(教義と聖約89章21節)
21節)また,主なるわたしは彼らに一つの約束を与える。すなわち,滅ぼす天使はイスラエルの子らを過ぎ越したように彼らを過ぎ越して,彼らを殺すことはない。アーメン。

(教義と聖約64章23節)
23節)見よ,今,人の子の来臨までは今日と呼ばれる。まことに,今日は犠牲の日であり,わたしの民が什分の一を納める日である。什分の一を納める者は,主の来臨の時に焼かれないであろう。

十分の一や知恵の言葉という約束には、経済的・肉体的な祝福とともに、それを守る者に印をつける働きもあります。
モーセの時代に鴨居に羊の血を塗ることが印であったように、末の日にも過ぎ越しの印となります。
神さまがそう約束しておられるからです。

モーセの時代にイスラエルを守り導かれたように、末の日にもイスラエルを守ってくださいます。


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この物語からあなたは何を学びますか

ここまで読まれて、自分には関係のない話だ、何の役にたつんだ、と思われているかもしれませんね。

わたしも最初に聖書を読んだとき、とても信じられない、こんなことありっこない、と思っていました。
それでも、その後、何度か聖書に出会う機会があり、読む機会があり、自分に当てはめて考えるようになりました。
そのうちのいくつかをここに示しました。

あなたも、この物語から、自分に役立つなにかをみつけていただければ幸いです。

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
(ヨハネによる福音書5章39節)

聖書のこの書、この物語のどんな点でイエスキリストを見出しますか?
ここまで読んでくださったあなたへ
あなたは神様の子で、神様のみもとに永遠に住むことができる存在にです。
地上に来たのは、いろいろな経験により、あなたの能力が増し加わり、ほかの人を助けることができるようになるためです。

わたしもこれから成長していきたいので、あなたとともに歩んでいきたいと願っています。

神様はあなたを愛し、あなたの幸せを願っておられます。

ご質問があれば、下のほうにコメント欄があるのでそちらに書き込んでください。

聖書のオンライン版は
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures?lang=jpn
または
https://www.wordproject.org/bibles/jp/index.htm
を参照してください。
あなたがこの世に来たのは、神様の戒めに従って生きるため。
神に敵対する存在が真理と誤りを混ぜてあなたに伝えても、それに惑わされずに生きるために神様は道を示してくださいます、
そして、たとえ道を誤ったとしても、また戻ってくる方法があります。

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