イエス様は弟子や民に語るとき、詩篇から多くを引用されました。また、イエス様の苦難が、詩篇に描かれています。詩篇をよく学ぶことをお勧めします。
詩篇が編纂されたのは、南王国つまりダビデの子孫の王国がバビロンに滅ぼされたあと、捕囚されたイスラエルの民がかつての神殿で受けた祝福や、国家の栄光、将来についての輝かしい約束、を思い出すためだったと聞いたことがあります。
賛美や嘆願を歌うことで神様の祝福を思い出し、憐れみに頼ろうとしていたんではないでしょうか
詩篇を読むとき、これをイスラエルの人たちがどんな思いで歌っていたかに思いをはせるのもよいことです。
ダビデは、晩年になり、家庭内、特に子供たちのことで大きな悩みをもつことになります。
ナタンの預言を受け、子どもたちを治めることができなくなったのは、自分の罪のためであると知っていました。
王としての力も、自分の子孫から救い主が誕生するという預言も、ダビデにとってはむなしく感じられたのかもしれません
そんな中で歌われたであろう詩篇69篇に目を向けて話をします
ここで、ダビデは、アブシャロム、あるいはアドニヤによって自分の王位を奪われそうになった時の苦難を歌っていると私は考えています。
ダビデがどん底に突き落とされる中で歌われたものです。しかし、その中で、ご聖霊の導きによって、彼はキリストの苦難について、自分と同じ苦難を見出し、それを歌にしました。
ダビデは望んで王になったのでもなく、サウル王から王位を奪って王になったわけでもありません。しかし、自分のこどもたちによって王位を奪われようとしています。
結果として自分を守る兵によって、子どもが殺されます。ダビデは子どもの死を嘆くこともできなくなります。
ダビデは自分の罪や、受けている苦難で苦しみます。一方で、救い主もそしりや迫害を受けて、苦しまれることを知っていました。
ダビデは何度も神さまの救いを待ち望んでいると歌っています。今でなくてもよいけれど、神様の時に救い出してほしい、自分を黄泉に落ちることが無いように、救ってほしいと。
自分には救いに値する価値はないけれど、憐れみによって救ってほしいと。そして、祈りが神様に届き、苦しみの叫びが感謝と賛美に変わります。
イスラエルの人たちは、語り継がれてきた歌を自分たちになぞらえ、将来への希望と、救い主への嘆願と感謝を示し、苦しみに耐えたのではないでしょうか。
旧約聖書は、憐れみ深い神様と多くの時に反抗的だった民の記録です。ひとことで要約するなら、神に従う時に祝福を受け、反抗するときに祝福を取り去られた歴史です。
イスラエルの民は、モーセの預言通りに、周囲の国々の偶像崇拝の習慣を取り入れ、神様の戒めから離れて、祝福を失ってしましました。
しかし、民の中には神様を忘れず、戒めを守る人たちもいました。その時代に、そこに生きていた人たちにも家族がいて、日々の生活をしていました。
時代も場所も違いますが、救い主への信仰を持った人として生きていることには違いがありません。
結婚し、子どもを育て、年老いて、死んでいきました。
豊かな収穫に賛美を歌ったかもしれませんし、日ごとの食物をどう得るかについて悩んだかもしれません。
こどもが育つ喜びを感じたかもしれません。家族内の不和で悩んだかもしれません。
この記録が日本語でも読めることに感謝しています。