こんにちはおおさむです。訪問ありがとうございます。
モルモン書のアルマ書32章は何を伝えているんだろうと思われているかもしれません。
モルモン書を学び始めてから40年以上が過ぎた私の考えを伝えます。お役にたてば幸いです。
モルモン書・アルマ書32章の要約と感想
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やむを得ずへりくだるようになることは、それによって神さまの教えに耳を傾けるようになれば良いことである。
自らへりくだって神さまの言葉を受け入れる人はさらに祝福を受ける。
信仰の種を育てるなら、その報いは大きい。
ゾーラム人の貧しい人たちがアルマのもとにやってくる
アルマと同僚たちがゾーラム人に神さまの御言葉を宣べ伝えはじめ、多くの労苦ののちに、貧しい階級の人たちの中で聞いてくれる人を見つけ出す。
これらのひとたちは、粗末な衣服のために汚れた者とみなされ、会堂に入ることができなかった。彼らは同胞から見下され、この世のものをあまり持たなかったので、心が謙遜であった。
彼らはアルマのもとに来て、貧乏なためにすべての人から、とりわけ祭司から見下され、嫌われ、自分たちが建てた会堂から追い出されたので、神さまを礼拝する場所が無い。どうすればよいか、と尋ねた。
アルマは、彼らが多くの苦しみを受けてへりくだり、御言葉を聞く用意ができていることがわかったので、非常に喜んだ。
(1-6節)
使徒行伝2章
37)人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
38)すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
教義と聖約101章
8)平穏な日には,彼らはわたしの勧告を軽んじた。しかし,苦難の日にはやむを得ずわたしを捜し求める。
へりくだるものは幸いである
ゾーラム人が礼拝している方法に従って
会堂でしか礼拝できないわけではない。
週に一度しか神さまを礼拝できないわけではない。
会堂から追い出されたこと、貧しいという理由で追い出されたことは、謙遜になり、知恵を得ることができるので良いことである。
やむを得ずにへりくだっていても、悔い改めるならば救い主の憐れみを受け、最後まで耐え忍ぶ人は救われる。
御言葉を知るように仕向けられたり、知るように強いられたりして初めて信じる、ということではなく、自ら進んで神さまの御言葉を信じバプテスマを受ける人は幸いである。
ひとに優劣なく、ただ神さまを絶対として、神さまの教えに従う。
あらゆることに神さまの御手を見出し、何事を受けても感謝し、誰に対しても驕り高ぶらず、親切に愛を持って接し、人の重荷を進んで担い、言葉にも行いにも、徳を感じる。
救い主の模範に習う。
(7-16節)
マタイによる福音書5章
3)「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4)悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
アルマ書38章
2)わが子よ,あなたが確固としており,神に忠実であるので,わたしはあなたによって大きな喜びを得られると確信している。あなたは若いときから主なる神に頼り始めたので,これからも神の戒めを守り続けるようにしてもらいたい。最後まで堪え忍ぶ者は幸いだからである。
信仰と行い
しるしを見せてくれたら信じる、と言う人は多くいるが、しるしを見たらそれが確かだと知っているので、すでに「知っていること」を信じる理由はない。
信仰とは、まだ見ていない真実のことを待ち望むことであり、物事を完全に知ることではない。
人は皆、行いに応じて報いを得る。
神さまの御心を知っていながら行わない人は、信じているだけで、または、信じる理由があるだけで、背いてしまうよりもひどい呪いを受ける。
救い主のようになるには、その御心を知る必要がある。
信仰を育てて、多くの恵みを受けたあとは、この世の誘惑から離れ、神さまの恵みの中にとどまるように、たえず自分を吟味して、悔い改めを続け、御霊から離れないように。
(17-21節)
エテル書12章
12)もしも人の子らの中にまったく信仰がなければ,神は人の子らの中で何の奇跡も行うことがおできにならない。したがって,彼らが信じてからでなければ,神は御自身を現されなかった。
18)どのようなときでも,信じてからでなければ奇跡を行った者はいない。したがって,奇跡を行った者はまず神の御子を信じたのである。
ヨハネによる福音書20章
29)イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
御言葉を種にたとえる
神さまは神さまの御言葉を信じることを望んでおられる。
神さまの御言葉を信じようとする望みを持つだけでもよいので、アルマが語る言葉を少しでも受け入れられるほどの信仰になるまで、その望みを育ててほしい。
これは善い種であり(御言葉はよいものであり)、心を広げ、理解力に光を注ぎ、良い気持ちを与え始めている。
このように、信仰は増すが、完全に知るところまではいかない。
その種が芽を出し、成長し始めると、その種はその種独自の形を生じ、その種が善いものであることを確信する。
このとき、そのことについての知識は完全になり、信仰は眠ったままになる。
神さまの御言葉は「光」であり、「光」は善であることを知る。
そのように見分けがつく。
植えた種、神さまの御言葉が善であることを知る。
しかし、まだ完全な知識には至っていない。
種が善いものかどうかを知るために、信仰を働かせて植えてみただけだから。
種は成長して木となり、木が成長し始めるときに、注意して養い育てるなら、木が根付き、成長し、実を結ぶようになる。
養い育てることに心を配らなければ、根付くことはなく、太陽の暑さがその木を熱すると根がないので枯れてしまい、その木を抜いて捨てるだろう。
それは、種が良くなかったためでも、実が好ましいものでもなかったためではない。土地がやせていて、その木に養いを与えなかったので実を得ることができない。
アルマ書32章
41)しかし,あなたがたが御言葉に養いを与えようとすれば,つまり,その木が生長を始めるときに,非常な熱意と,忍耐を伴う信仰を働かせてその実を期待しながら養いを与えようとすれば,それは根付くであろう。そして見よ,それは生長して永遠の命をもたらす木になるであろう。
42)あなたがたは,御言葉が自分の中に根付くように,熱意と信仰と忍耐をもってそれを養うので,見よ,やがてその実を得るであろう。その実は最も価値があり,どんな甘いものよりも甘く,どんな白いものよりも白く,どんな清いものよりも清い。また,あなたがたは満ち足りるまでその実を食べて,もう飢えることも,渇くこともないであろう。
43)それで,わたしの同胞よ,そのときにあなたがたは,その木があなたがたのために実を結ぶのを待ちながら示した,あなたがたの信仰と熱意と忍耐と寛容の報いを刈り入れるのである。
アルマ書33章
1)アルマがこれらの言葉を語り終えると,彼らはアルマのもとに人をやって,彼が述べたその実を得るためには,唯一の神を信じなければならないのかどうか,その種,すなわち心の中に植えなければならないとアルマが述べたその御言葉をどのようにして植えればよいのか,すなわち,どのような方法で信仰を働かせ始めればよいのかを知りたいと伝えさせた。
22)・・略・・あなたがたの目を向けて,神の御子を信じるようにしなさい。神の御子が将来,御自分の民を贖うために降臨されること,御子がその民の罪を贖うために苦しみを受け,死なれること,御子が死者の中からよみがえり,復活をもたらされること,終わりの裁きの日に,すべての人が各々の行いに応じて裁きを受けるために神の御子の御前に立つこと,これらのことを信じてほしい。
23)さて,わたしの同胞よ,あなたがたがこの御言葉を心の中に植えて,それがふくらみ始めたら,あなたがたの信仰によってそれを養い育ててほしい。そうすれば見よ,それはあなたがたの心の中で生長して,永遠の命をもたらす木になるであろう。そのときに,神があなたがたのために,神の御子の喜びによって重荷を軽くしてくださるように。これまで述べてきたことは,もしあなたがたにこれを行う意志さえあれば,すべて行えることである。アーメン。
ニーファイ第一書8章
10)そして,一本の木が見えたが,その実は人を幸せにする好ましいものであった。
11)そこで,行ってその木の実を食べると,それは,今までに味わったどんな実よりもずっと甘いことが分かった。またその木の実は白く,今までに見たどんな白いものにも勝って白かった。
(22-42節)
まとめ
自分で見たものは、すでに知っている。信じる必要はない。
結果は見えなくても、確かだと信じ従う。それが信仰。
望みを持ち、信じて行うことで、それが確かであると心に感じることもある。
それが良いものであるとわかれば、その信仰を育て、強めればやがて大きく育つ。
信仰の種は、救い主の贖いを信じようとする気持ち・望み。