こんにちはおおさむです。訪問ありがとうございます。
旧約聖書のマラキのあと、新約聖書の時代になるまでカナンの地のイスラエル(ユダ)の人たちの信仰はどうなっていったか。
聖書を学び始めてから40年以上が過ぎた私の考えを伝えます。お役にたてば幸いです。
ユダの地域は大国(ペルシャ、ギリシャ、ローマ)の庇護を受けることで軍事的には守られつつ、その文化や宗教の影響により、神様の教えから離れていきました。
神様はイスラエルを選び、彼らを祝福しようとされていましたが、民は拒否し、祝福を失いました。
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- 神様はイスラエルを選ばれた
- (詩編132編13節~16節)
13)主はシオンを選び、それをご自分のすみかにしようと望んで言われた、
14)「これはとこしえにわが安息所である。わたしはこれを望んだゆえ、ここに住む。
15)わたしはシオンの糧食を豊かに祝福し、食物をもってその貧しい者を飽かせる。
16)またわたしはその祭司たちに救を着せる。その聖徒たちは声高らかに喜び呼ばわるであろう。
旧約聖書と新約聖書の間をつなぐ4つのことをご紹介します。
旧約聖書と新約聖書の間をつなぐ4つのこと:イスラエル民は、神様への心からの礼拝ではなく、律法を礼拝の対象とするようになりました
2.ギリシャによってイスラエルの神様への礼拝が禁止されました
3.パリサイ派の教えが民衆の支持を受け、民は律法を礼拝するようになりました
4.ヘロデ大王の統治が始まりました
ひとつひとつ簡単に解説します。
1.律法学者の勝手な解釈が民に教えられるようになりました
カナンの地には、民に神様の言葉をつたえる預言者がいなくなりました。
指導者や民の不正を声高らかに指摘する人がいなくなったのです。
ユダに残った人々は、過去の預言者たちの言葉を集め、書き写し、その意味を探ろうと研究し始めました。
捕囚ののち、ペルシャ王は、ユダの人たちを導く(取り締まる)ように任命した人に、律法(明文化)を利用するように強制しました。
捕囚の間に民の日常語はヘブライ語から、バビロニアやペルシャのアラム語になっていました。
ヘブライ語で書かれた律法の書(トーラー)を理解するためには、ヘブライ語に通じている学者の知恵が必要でした。
過去の預言者の言葉は、自分たちに都合の悪いものもあり、理解しにくいものもありました。
律法学者たちは、拡大解釈したり、意味を曲げて解釈したりして、自分たちの行いを合理化するようになりました。
もし預言者が生きていれば、そういった行為を声高らかに非難したでしょう。
しかし、預言者がいなくなり、神様の言葉を正しく解釈できる人はいなくなっていたのです。
自分たちで勝手な解釈をする律法学者たちが、エルサレムに戻ったユダの民を教えることになったのです。
2.ギリシャによってイスラエルの神様への礼拝が禁止されました
ペルシャのあと、カナンの地を支配したのはギリシャでした。
ギリシャ語が母国語となり、ヘレニズム文化が標準となりました。
ギリシャ人は、ユダの民の宗教を原始的とみなし、ギリシャの宗教を強制するようになりました。
上流階級(祭司、商人、貴族)の人たちは、ギリシャに近づくために、徐々にイスラエルの律法を捨てていきました。
もともと神殿再建の際に敵対していたサマリヤ人とユダの人たちは、互いに、神様の教えから離れてしまった、として敵対心を強めていきました。
アンティオコス4世がカナンの地を支配する権力を取ると、イスラエルの神への礼拝を駆逐しようとしました。
上流階級・支配者層はそれを受け入れましたが、民衆は反発しました。
民衆の反発を恐れたアンティオコス4世は神殿礼拝を中止させ、ギリシャの神々への礼拝を強制しました。
3.パリサイ派の教えが民衆の支持を受け、民は律法を礼拝するようになりました
ギリシャに支配されていたころに、パリサイ派やサドカイ派と呼ばれる人たちが現れました。
パリサイ派は、律法を現実に合うように拡大解釈し、大衆に受け入れられました。
サドカイ派は、拡大解釈を否定し、律法に書かれていることだけを正しいとして、上流の人たちに受け入れられました。
サドカイ派では死後の命や復活を否定し、この世を豊かに生きるための教えだとしていました。
アンティオコス4世に対する反乱が始まったとき、パリサイ派の人たちの支援を得ました。
BC164年、エルサレムを奪還し、ギリシャに自治を認めさせ、神殿を回復しました。
しかし、新たな指導者は、神様が助けてくださったことを忘れ、王宮の権力や富に負け、堕落してしまい、BC63年にローマに併合されてしまいました。
その後もパリサイ派の人たちは民の行動を細かく規定し、シナゴーグ(会堂・集会)において、民を教育しました。
民は形ある偶像への礼拝はやめましたが、神様への心からの礼拝ではなく、律法を礼拝するようになりました。
4.ヘロデ大王の統治が始まりました
イドマヤの有力者であったアンティパトロスはローマに取り入り、息子をユダの王にする権限を認めさせました。
それがヘロデ大王です。
ヘロデは、ローマからみれば、従順であり、統治者としては有能でした。
ユダヤ人の中に、ヘロデを約束の救いをもたらすものと信じ、ヘロデ王を支持するヘロデ党が組織されました。
ヘロデ党は、イエスを自分たちに反対するものであるとして、パリサイ派の人たちと手を結んでイエスに敵対しました。
ヘロデの統治の間も、形式的には神殿の儀式は続けて行われており、祭司ザカリヤも当番として儀式を行っていました。
(一方で、ローマを倒すことが神の国をもたらすことであると信じるゼロデ党(熱心党)は、たびたびローマに反抗します。彼らの反抗はAD70年にエルサレム滅亡とつながっていきました)
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- 祭司ザカリヤに主のみ使いが現れる
(新約聖書 ルカによる福音書 1章)
8)さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、
9)祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
10)香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
11)すると主の御使が現れて、香壇の右に立った。
12)ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
13)そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
14)彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
15)彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
16)そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
17)彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
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