こんにちはおおさむです。訪問ありがとうございます。
モルモン書のアルマ書42章は何を伝えているんだろうと思われているかもしれません。
モルモン書を学び始めてから40年以上が過ぎた私の考えを伝えます。お役にたてば幸いです。
モルモン書・アルマ書42章の要約と感想
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アダムが堕落したので、人類は霊的にも肉体的にも死ぬものとなり、そのままでは神さまのみもとに戻ることができなくなったので、贖い主の犠牲の代価によって、救い主を信じて悔い改め、救い主の教えに従おうとする人たちは罪の赦しを得ること、自分で悪を行って生涯の終わりまで悔い改めない者は贖いを受けることができず、永遠に不幸な状態に置かれることをアルマはコリアントンに説明し、神さまの正義を否定しないように、言い訳にしないように、神さまから受けた務めをまじめに果たすように告げている。
コリアントンが理解できないこと
- コリアントンは、罪人を罰する神の公正について理解できていない。
- コリアントンは罪人が不幸な状態に置かれるのは不当であると思っている。
アルマが息子コリアントンにこのことについて教える。
(1節)
人は善悪を知り、死ぬものとなった
- 人類の(わたしたちの)始祖であるアダムは、神さまの警告に従わず、サタンに誘惑されて、神さまから食べることを禁じられた木の実を食べた(罪を犯した)。
- 人は神のように善悪をわきまえる(自分の意思に従う)ようになり、同時に、人は死ぬものとなり、エデンの園から追い出され、土を耕すようにされた。
- 人が罪のあるままの状態でとこしえに生き長らえることのないように,神さまは人が命の木に近づけないようにされた。
- 人が罪を犯したので、神さまの正義の取り決めにより、神さまの前から追い出されることになった。
- 人が神さまの御前から追い出され、死ぬものとなったことを堕落という。
- 人は神さまの意思ではなく、自分の意思に従って、神さまの勧告に従うか、悪魔の誘惑に従うか、自分で善悪を選ぶことができるように(善悪の間で選択を迷うように)なった。
- この堕落した状態は、人が自分の不従順のために自分自身に招いたものであるので、人には、自分たちをこの堕落した状態から救い出す手段はなかった。
(2,3,6,7,12,14節)
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるな…
サタンはどのようにして悪魔となったか。サタン,エバを誘惑する。アダムとエバは堕落し,死が世に入る。…
モーサヤ書16章
3)彼らは肉欲にふけり,悪魔に従うので,悪魔が彼らを支配する力を持つ。この悪魔はわたしたちの始祖をだました,年を経たあの蛇である。その年を経た蛇が始祖をだましたために始祖は堕落し,そのためにすべての人は肉欲や官能におぼれ,悪魔に従い,善と悪を知りながら悪魔に従うようになった。
4)このようにして,全人類は迷った状態になった。そして見よ,もし神が御自分の民を迷い堕落した状態から贖われなければ,彼らは限りなく迷った状態になっていたであろう。
5)自分自身の肉の性質の中にとどまり,罪の道と神に背く道を進む者は,その堕落した状態にとどまって,悪魔がその者を支配するすべての力を持つということを忘れるな。だから,その者は神の敵であって,あたかも贖いがなかったかのようである。悪魔もまた神の敵なのである。
ニーファイ第二書2章
5)人は善悪をわきまえることを十分に教えられている。また,人には律法が与えられている。しかし,この律法によって義とされる者はだれもいない。すなわち,この律法によって人は絶たれるのである。まことに,現世にかかわる律法によって人は絶たれ,また霊にかかわる律法によっても人は良いものから絶たれて,とこしえに惨めな状態になる。
ニーファイ第二書2章
16)そのようにして,主なる神は思いのままに行動することを人に許された。しかし人は,一方に誘われるか他方に誘われるかでなければ,思いのままに行動することはできなかった。
贖いの計画
人の魂(霊)は永遠に存在する。アダムの堕落は自分とその子孫(全人類)に肉体の死と霊の死をもたらした。
※肉体の死は、人間の本性である霊とこの世に来るときに神さまから与えらえた肉体が離れ、再び霊が肉体に宿ることができないことを意味する。
霊の死とは、神さまと離され、直接まみえることができない、完全な祝福を得られないことを意味する。
そのままの状態が続けば、とこしえに、人は神さまのみもとに帰ることができない。人が作られたのは神さまのように幸福になるためであり、それは神さまの望みでもあるので、この状態から救われる方法が必要であった。しかし、人は自分自身を救い出す力はない。
正義の取り決めを満たし、かつ、憐れみによって人を罪から救い出すために、救い主ご自身による完全な犠牲と、人が罪を悔い改めるという条件が用意された。
罪の贖いがなければ、わたしたちが神さまのみもとに戻り、完全な祝福を得ることはできないからである。
贖いは、完全な神さまの愛と憐れみによるのである。
もしアダムがすぐに命の木から取って食べていたら,肉体の死からは救われるが、神さまの御前から断ち切られたまま(霊の死)で、とこしえに生き長らえることになっていた。
それは、贖いを受けることなく、外の暗闇に追い出されることになるので、人が救われる道がないことを意味している。
命の木に近寄らないようにされたことも神さまの愛と哀れみなのである。
神さまの御子はわたしたちを罪から救うため、罪のない傷のない犠牲となられた。
全宇宙を支配し、自然を管理される方が、わたしたちのために、すべてのものの下に身をおとされた。
正義の要求をみたし、憐れみの権利を満たす、
永遠の祝福への細くて狭い道を備えてくださった。
(5,8,9,13,16節)
アルマ書34章
9)贖罪が行われることは必要である。というのは,永遠の神の偉大な計画によって贖罪が行われなければならず,そうでなければ,全人類が滅びるのは避けられないからである。まことに,すべての人はかたくなになっており,堕落し,迷った状態にあるので,贖罪によらなければ必ず滅びる。贖罪は必ず行われなければならない。
ニーファイ第二書9章
7)したがって,贖罪は無限の贖罪でなければならない。もしそれが無限の贖罪でなければ,この朽ちるものが朽ちないものを着ることはできない。したがって,人に下った最初の裁きが限りなく続かなければならない。もしそうならば,この肉体は横たえられ,朽ち果てて母なる大地に返り,もう二度と起き上がることがないに違いない。
現世は神さまに会う用意をする時
人類は生まれながらの本性のために,肉欲や官能におぼれ,悪魔に従う者となったので、現世は、神さまの御前から断ち切られた人類が神さまのもとに帰るために用意をする状態(時期)、準備の状態(時期)となった。
贖いの計画により、現世にいる間に、悔い改めて神に仕えるならば、贖いにより罪が赦され、神さまのみもとに帰ることができる。
(4,7,8,10節)
モーサヤ書3章
19)生まれながらの人は神の敵であり,アダムの堕落以来そうであって,今後もそうである。また人は,聖なる御霊の勧めに従い,主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒となり,子供のように従順で,柔和で,謙遜で,忍耐強く,愛にあふれた者となり,子供が父に従うように,主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従わないかぎり,とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。
アルマ書12章
24)そして,わたしたちの知っているように,現在,死が人類に及んでいる。まことに,アミュレクが語った死,つまり肉体の死が及んでいる。にもかかわらず,人が悔い改めることができるように,猶予期間が与えられた。したがって,この世の生涯は試しの状態,すなわち神にお会いする用意をする時期,わたしたちが前に語った死者の復活後に訪れるあの無窮の状態に対して用意をする時期となった。
律法と罪と罰
神さまの正義、神さまの公正な律法は絶対不変である。
神さまの勧告(戒め)に背くことは罪である。
神さまよって、罪には罰(神さまから離される)が定められている。罰も永遠不変である。
(9,16)
罰がなければ
神さま(御霊)から離されることがなければ、人は良心にとがめを感じることもなく、神さまのみもとに帰ることに何も障害がない。
罪を犯しても、罰が無ければ、何も恐れる必要もなく、悔い改める必要がない(罪悪感も悔いることもない)
罰がなければ罪もない、罪(作用)も罰(結果)もなければ律法(法則)も必要ない。
律法が与えられていなければ,人が罪を犯しても,正義や憐れみは、その人に罰も赦しもあたえる権利を持たない。
※律法を受けていない人は、救い主の憐れみにより救われる。
(16、17,19,20,21)
ローマ人への手紙4章
15)いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
モーサヤ書3章
11)そして見よ,この御方の血は,アダムの背きのために堕落した者たちの中で,自分たちに関する神の御心を知らずに死んだ者たち,あるいは気づかないで罪を犯した者たちの罪も贖う。
罰が定められ、律法が与えられたので
神さまの公正な正義の律法が与えられ、罰が定められ,それらが人に良心のとがめ(罪の意識)を生じさせる。
人が罪を犯せば、正義がその人について権利を主張し,律法定められた罰を負わせる。
(18,21節)
正義と憐れみ
神さまはわたしたちに対する憐れみで満ちておられるが、憐れみは正義の要求を妨げることはできないので、正義の神さまは憐れみによって無条件に人の罪を赦すことはできない。
神さまの律法では悔い改めが許されており、憐れみは人の悔い改めを要求する。
人が神さまに従い、心から罪を悔い改めることを条件に、救い主の犠牲を代価として権利を主張し、罪から救い出してくださる。
このようにして、神さまは、正義と憐れみの両方が損なわれることなく罪から人を救う方法を用意された。
(18,22-25節)
贖罪と裁き(回復)
憐れみは贖罪によって与えられ、贖罪は死者の復活をもたらし,死者の復活は人を神の御前に連れ戻す。
人は神の御前に連れ戻され,律法と正義により,自分の行いに応じて裁かれる。
神はさまは世の初めから用意されていた御自分の偉大な永遠の目的を達せられ、人の救いと贖いと,滅びと不幸が生じる。
人には選択の自由が与えられているので、救い主のもとに来ることを選んで、価なしに命の水を飲むことができるし、救い主のもと来ないことを選び、悪を行うことを望み、生涯悔い改めなければ,神の回復の原則によって災いが及ぼされる。
(23,26-28節)
アルマ書7章
12)また神の御子は,御自分の民を束縛している死の縄目を解くために,御自身に死を受けられる。また神の御子は,肉において御自分の心が憐れみで満たされるように,また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように,彼らの弱さを御自分に受けられる。
アルマ書40章
21)死者は出て来てその霊と体とが再結合され,神の御前に連れ出されて立ち,自分の行いに応じて裁かれるのである。
モーセ書1章
39)見よ,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である。
ニーファイ第二書2章
27)そのため,人は肉においては自由であり,人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は,すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は,すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。
アルマ書5章
34)まことに,主は言われる。『わたしのもとに来なさい。あなたがたは命の木の実を食べるであろう。あなたがたは価なしに命のパンを食べ,命の水を飲むであろう。
ヨハネの黙示録20章
12)また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
コリアントンへの勧め
神さまの正義によって罰が与えられることを不満に思ったり、回復のあやまった理解に心を奪われることなく、自分の罪にだけ心を悩まし,その悩みによって悔い改めに導かれるようにしてほしい。
神の正義を否定しないでほしい。
神の正義を否定することで、自分の罪の言い訳をしようとしてはならない。
神の正義と憐れみと寛容があなたの心の中で存分に力を振るえるようにしてほしい。
へりくだって地にひれ伏すことができるようにしなさい。
この民に御言葉を告げ知らせるために神から召されている。
神さまから与えられた道を行き,誠実にまじめに御言葉を告げ知らせて,人々を悔い改めに導き,偉大な憐れみの計画が彼らについて権利を主張できるようにしなさい。
神がまことにわたしの言葉のとおりにあなたにかなえてくださるように。
(29-31節)
まとめ
罪には罰を与える正義
人には神さまの正義を曲げる力はない
神さまはすべてをご存知なのでどんな言い訳も不用である
神さまと神の御子が大きな愛で備えられた道に従って罪を悔い改めて罪の赦しを得、永遠の幸福に回復される。
その道に従わず、悪を行って悔い改めないで生涯を終えるなら、回復により災いを受ける。
すべてを用意し、罪の赦しを与えてくださる神さまの前に謙り、感謝を捧げ、神さまの与えてくださった道を外れずに歩むように願う